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Posted by TI-DA at

2014年08月31日

ラジオオンエア曲 「対馬丸撃沈事件」

8月31日(日) PM9:00~9:30
FM愛媛  ポン川村の「ハイサイ!沖縄 PARADISE RADIO」
提供 中予自動車株式会社http://www.tyuyo.com/
  
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いつでもどうぞ!
FAX 089-933-6211
Eメール haisai@joeufm.com 
FM愛媛HP http://www.joeufm.co.jp/

特集テーマは「対馬丸撃沈事件」
アメリカの潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃で児童を含む約1500名の命が犠牲になった・・・
あれから70周年

オンエア曲
① りんけんバンド 「世 世 世」
② 川畑アキラ 「甦る人々」
③ BEGIN 「オバー自慢の爆弾鍋」
④ Jimama 「大丈夫 ロングバージョン明日へ~」
  


Posted by ポン川村 at 18:52Comments(0)ラジオ

2014年08月18日

9月14日は11周年パーティ

おかげさまで私が営んでおります「Keepon」が

来る9月14日

11周年を迎えます。

生ライブに

DISCO

ビュッフェフリー!

みんなでフィーバーしようぜ!

下記フライヤーは最終稿ではありませんが、出演者などは記載のとおりです。

  


Posted by ポン川村 at 04:00Comments(0)お店

2014年08月18日

グローバリズムという病


平川 克美著「グローバリズムという病http://store.toyokeizai.net/books/9784492314500/
「グローバリズムという病」にかかった日本
シンガポールのような国が、本当に理想なの?
平川 克美 :株式会社リナックスカフェ代表取締役
2014年08月14日 東洋経済
http://toyokeizai.net/articles/-/45363
「始まったものは、必ず終わる」。昨年末、急逝した不世出の音楽家・大瀧詠一氏の言葉だ。シリコンバレーのど真ん中で事業を展開していた経営者であり、立教大学のMBAコースで特任教授もつとめる平川克美氏は、大瀧氏の言葉を引用しながら、グローバリズムといえども「始まったものは必ず終わる」という論を展開する。

同氏はこのほど上記をテーマにした『グローバリズムという病』(東洋経済新報社)を上梓。資本主義を駆動してきた株式会社が、右肩上がりが見込めなくなった世界で、何とか生き残ろうとする最後の悪あがきを、「流行する『グローバル○○』という病の主症状であると分析する。今回は、ビジネスパーソンにとって非常に身近なテーマである「グローバル人材」について、なぜこれほどまでに喧伝されるようになったのか、その背景について分析してもらった。

そもそも「人材」という言い方が、気に入らない

かつて小林秀雄は「合理的人間になど出会ったことなどない」と言ったが、わたしは「グローバル人材」などというものに出会ったことはない、と言いたい。

そもそも「人材」という言い方が気に入らない。「人財」というひともいるが、ひとは、材料でもなければ、財産でもない。世界中のどこに行こうが、そこで出会うのは自分と同じようにわけのわからない、浮世の悩みを抱えたり、呆然としていたり、黙々と仕事をしていたり、恋人と腕を組んだり、苦境を抜け出すために何かよい手はないかと考えたりしている具体的な人間であり、抽象的なグローバル人材などというものは、どこにも存在していないのである。

そんなことを言いだせば、「労働者」も「消費者」もいないじゃないかという反論がありそうだが、そんなことはない。工場に行けばたくさんの労働者が、作業着を着て、手に道具を持って、働いているし、銀座や青山をあるけばショーウィンドウを眺めている無数の消費者で出会うことができるはずである。

では、なぜグローバル人材なんていないということをことさらに言うのか。いずれも、人間というものの一面を抽象していることには間違いはないのだが、グローバル人材なるものは抽象とも呼べないわけのわからない代物だという他はない。

なぜなら、「労働者」という言葉は労働現場にあらわれる人間を指し示すと同時に、人間を労働と資本という関係でとらえたときのひとつの位相を示す抽象的概念でもあるが、「グローバル人材」は人間というもののどんな側面も抽象してはいないからだ。

英語がしゃべれる人間=グローバル人材ではない

人間は、そのふるまい方、居場所、職業、性格など様々な要素によって抽象的に描かれうる。工場で働いていれば「労働者」であり、丸の内あたりのオフィスで背広で仕事をしていれば「ホワイトカラー」であり、すぐに腹を立てて暴力沙汰を引き起こす性癖をもっていれば「喧嘩っ早いひと」であり、当今のモードを牽引する美形のロールモデルであれば「二枚目」ということになる。そのようにして抽象され、概念化された人間は確かに人間の本質的な側面を言い当てている。

しかし、「グローバル人材」とは、どこにいて何をしている人間を抽象し、そこからどんな本質的側面が浮かび上がってくると言うのか。実際のところ、「グローバル人材育成プログラム」が政府によってその要を喧伝され、大学では実際にそのようなプログラムがすでに起動しており、財界もまたそれを歓迎している。それらを指嗾(しそう)するものたちは、自分こそがグローバル人材であると思っているらしい。

もし、わたしは「グローバル人材ですよ」などと自称する人間がいたとして、それはいかなる人間的特徴を有しているのか。

英語が喋れる人間がグローバル人材ではないことは言うまでもないことだろう。もし、英語使いがグローバル人材なら、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人はほとんど、生まれながらに(母語を覚えたときにということだが)グローバル人材であって、その他のほとんどの国民はローカルな人材でしかないということになってしまう。さすがに、グローバル人材育成の要を唱えているものも、そこまでは言うまい。

では、他にどんな特徴を持った人間をグローバル人材というのだろうか。

海外の習慣や文化に通暁している人間ならば、昔からその道の専門家がいたし、海外経験を生かして仕事をしているビジネスマンも多いだろう。かれらは、たしかにビジネスの現場においては有用性を発揮することができるだろうが、グローバル人材育成プログラムなるものの中身を見る限り、上記の異文化を学ぶための、たとえば仏文学や、西洋哲学や、文化人類学といったものが重用視されているようには到底思えない。

むしろ、現代の日本の大学からは、仏文科や、人類学といったリベラルアーツの学科は消えつつあり、代わって未来創造学部だとか、情報フロンティア学部だとか、グローバル・メディア・スタディーズ学部、アジア太平洋マネジメント学部といった不思議な学部、学科が出現しているのである。

時代が変化し、その変化に即応する能力を身に付ける必要からこのような学部が続々と生まれているのだから、それでいいじゃないかということなのかもしれない。需要があるんだから、大学はその需要に応えるのは当たり前だというわけである。

立教大学総長が語った、大学の存在意義

しかし、大学が学問の場所であるとして、そもそも、学問とは何のためにあるのか。かつて、わたしが勤務する大学の総長である吉岡知哉は、2012年の大学院の卒業式にあたって大学の存在意義に関して次のように述べた。

一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。

大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。

しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。

大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。

見事な祝辞であると思う。このとき卒業式の現場にいたわたしは、思わず拍手をし、吉岡総長の言葉の一端をツイッターで送信したのだが、驚くほどの反響があったのを覚えている。

このとき、吉岡の頭の中にあったのは、当今隆盛のグローバル人材育成に対するアンチテーゼとしての大学の役割であっただろう。実際に、立教大学がグローバル戦略なるものを断固として拒否し続け、学問の本義を守り続けているかどうかに関しては疑問が残るのだが、このようなことを大学のトップが言い続けることが重要なことではないかとわたしは思う。

この年の卒業式において、多くの大学の総長が、祝辞の中でグローバルに活躍できる人材育成の要を説いていたのである。実際に現場の教員がどう考えているのかはおくとしても、文科省からはグローバル人材育成の指令が出ており、予算編成や各種プログラムの中で、大学人は苦慮していることが推察される。

文科省のホームページを覗くと、「スーパーグローバル大学等事業」なるページに出くわす。そこには、こんな文言が最初にあらわれる。

若い世代の「内向き志向」を克服し、国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる人材の育成を図るため、大学教育のグローバル化のための体制整備を推進する。

「スーパーグローバル」なる言葉が文科省のホームページに出てくることに目を疑うが、その事業の内容に目を通すと、まるで世界中の大学が、グローバル化競争を行っており、文科省が先導して、日本の大学を世界でトップクラスのグローバル人材育成機関にしようとするプログラムがこれでもかというように並んでいるのである。

しかしそれはあくまでも、グローバル化こそ所与の目標であるかのように考えているものたちのグローバル化競争のようで、グローバル化が進む世界で大学が何を為すべきかを根底的に問うた言葉だとは言い難い。吉岡が言ったように、大学は時代性というものをときに疑い、ときにそれを根底的に問い直す場であったはずである。

「スーパーグローバルな大学」を作れという大号令と、そのイケイケどんどんの姿勢には閉口せざるを得ないが、こういった圧力が政治的にも経済的にも大学を圧迫し、理事会なども率先してこれを受け入れるという傾向が顕著なのである。そして、大学というものが、自ら、企業からの要請に応える人材育成のサービス機関となるとすれば、それは大学の自殺に等しいとわたしは思っている。

この大学のグローバル化を直接に要請しているのはグローバル企業であり、そのグローバル企業に支えられている政治家たちであり、グローバル競争を克ちぬくことが国益だと信じている官僚たちだろう。かれらがよく引き合いに出す、グローバル化した場所のひとつがシンガポールである。はたして、シンガポールはわたしたち日本が目指すような国なのだろうか。

シンガポールは「明るい北朝鮮だ」という冗談がある。2012年、米国の調査会社であるギャラップ社は、笑いの頻度や休息時間の大小など日常生活の「充実度」に関する世界148カ国を対象にした調査結果を発表した。

日本の「シンガポール化計画」は正しいのか?

CNNによると、最も「不満」を抱いていたのはシンガポール国民で、逆に満足感が最も多かったのは中米パナマと南米パラグアイだった。「幸福度」が高い上位10カ国のうち中南米諸国が8カ国を占めた。調査は前年の2011年に、148カ国の国民約1000人ずつを対象に実施された。前日の生活で「十分休めたか」「何か面白いことがあったり興味を持てることをしたりしたか」「たくさん笑ったか」「敬意をもって接しられたか」などの5項目を質問。「はい」「いいえ」の回答率を比較対照することで、各国民のプラス思考や人生への前向きな態度、感情の表現度などを探ったということである。

複数の学者が、日本の経済成長のロールモデルとして称賛しているシンガポールは、1人当たりの国内総生産(GDP)では世界でも最上位クラスだが、国民の生活不満度が最も高いという上記の結果をどのように見ればよいのか。

この調査とは別の、ギャラップ社の国民の感情に関する150か国の調査(2009年~2011年)では、感情の起伏が最も乏しいのはシンガポール人で、最も豊かなのはフィリピン人であるという結果が出ている。「昨日、よく微笑んだり笑ったりしたか?」、「昨日、興味深いことを知ったり、したか?」といった質問に対し、シンガポール人は「はい」という回答が36%と最も低かったということである。

これらの調査結果だけを見て、シンガポール国民は不幸であり、感情の起伏にとぼしく、無気力になっていると結論するのは早計というものだが、この国がかなり特異な性格を持った国であると判断することは可能だろう。

F1を誘致したり、カジノ・リゾートを誘致したりと、海外資本を呼び込み、世界中の頭脳を金で呼び寄せ、福祉予算を極限にまで削減して実現してGDPを押し上げている一方では、所得格差を現わすジニ係数がアジア最高レベルであり、報道の自由は他のアジア諸国に比して最も制限されている国でもある。

外形的には高層ビルが立ち並び、ゴミがなく、路上生活者のいない快適な国造りをしているように見える。だが、貧富格差が最大レベルで固定化され、福祉は自己責任の名のもとに切り捨てられ、軍事費はGDPの4分の1という軍事大国の姿は、わたしにはかなり歪んだものに見える。

このシンガポールの姿は、まさにグローバル時代のひとつの典型であり、シンガポールの富裕層こそはグローバル人材のロールモデルというわけである。なぜならそれは、シンガポール政府が喧伝するように、グローバル企業が最も活動しやすい国であるからである。


資源に乏しく、歴史もなく、華人を中心とした多民族国家である人口約540万人ほどの人口国家が生きていくために選択したのは、金融と海外資本誘致、独裁的な体制と、新自由主義的な経済政策であったわけだが、歴史も文化も言語も家族構造も異なる日本がこの都市国家をロールモデルにはとうていできないというほうが、常識的ではないか。

なぜ、人口減少が進み、経済成長も見込めなくなり、消費資本主義の新しいフェーズに入った日本が、成熟国にふさわしい経済モデルを作ろうとせずに、発展途上段階にあるような国や、人工的な金融国家の後追いするのか、わたしはまったく理解に苦しむのである。では、上記以外の解決策はどこにあるのか。くわしくは本書をお読みいただきたい。  


Posted by ポン川村 at 02:19Comments(0)名言集

2014年08月03日

ラジオオンエア曲 「第49回松山まつり」

8月3日(日) PM9:00~9:30
FM愛媛  ポン川村の「ハイサイ!沖縄 PARADISE RADIO」
提供 中予自動車株式会社http://www.tyuyo.com/
  
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Eメール haisai@joeufm.com 
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特集テーマは 「第49回松山まつり」

ゲスト 松山商工会議所青年部 小川哲さん
今年も私 ええやないか!松ちゃま連 盛り上げMCいたします!
8月8日・9日両日出演!

2002年の写真 

今年の野球拳踊りには琉球国祭り太鼓愛媛県支部のみなさんも野球拳を沖縄アレンジして参加とのこと!


① Ambercajyu 「沖縄へ行こう」
② May’s 「WAになっておどろう」
③ THE BOOM 「シンカヌチャー」
④ 中 孝介 「真昼の花火」  


Posted by ポン川村 at 12:00Comments(0)ラジオ

2014年08月02日